BIOGRAPHY
PROFILE
2008年頃から楽曲制作面を中心に頭角を現し、TV番組に出演した際、CHARA氏からその楽曲を評価されZEPP TOKYOでライブが決まる
翌年から音楽の新たな可能性を探して、活動をライブハウスから地域に移す。
東京都稲城市内にて緑を基調にしたライブcafe「green world cafe」、イベントスペース「聖亭」、音楽ボランティア団体「小さな音楽団」を立ち上げる。
「良いな稲城」を作曲、市の応援ソングとして提供したり、市内団体へ楽曲提供を行う。
STORY
■幼少期■ 静岡県出身浜岡原子力発電所の隣の町「大東町」に生まれ祖母に懐いて育つ。
小学校1年 近い将来東海大地震が起きる事を知る。
小学校2年 祖母が交通事故に遭い、退院するもすぐに脳梗塞で倒れ半身不随になった為、 祖母の介護をしながら一緒に遊ぶ。また山好きの父親に連れられ毎年夏は南アルプスや八ヶ岳に山登りに行き雷鳥やコマクサ、岩魚など豊かな自然に触れ合い自然が好きになる。
小学校4年 いじめに遭い家に帰るとゲームに没頭する日々が続いた為、学校の成績が著しく低下し、生まれて初めて0点を取る。しかし忘れ物を取りに行かされる事や廊下に机を出される事や放課後居残り勉強をする事に喜びを見出す。
小学校5年 「流れ星銀河」を見てクマが怖くなり山に行かなくなる。
小学校高学年~ 父親の影響でたまに「週間金曜日」を読み出す。
■青春期■
中学1年「HELLO」がなぜ「ハロー」と読むのかという疑問に駆られ、悩んだ為英語のテストの点数が半年くらい一桁になる。その後塾に通い、深く考えるなと教えられた為考えることをやめたら、飛躍的に学力が上がり学年でもトップレベルになるが、それに甘んじて授業を寝るようになったためヒアリングが絶望的になる。
中学3年、進路相談面接前に成績表の低さに悩んだ時、当時読んでいた漫画の中の音楽サクセスストーリーを見て音楽を志す。
すぐに音楽の街「浜松」でギターを購入するが、ギターのチューニングの仕方、コードの意味がわからず弾く事をやめ夢を口に出す事から始める。
高校に入り従兄弟や友達の影響でベースやドラムに触れるがすぐにあきらめがつき歌う事にする。
同時に「女の子にもてるはず」と友人を誘い生まれて初めてバンドを組む。
高校2年、文化祭で初のライブをし、大盛況?だった為自分の才能に確信を持つ。
そのままバンドに憧れ高校卒業とともに上京し音楽の専門学校に入学するが、すぐに自分が音痴で、しかも音痴だとわからない耳を持っているとわかり道を誤った事に気づく。
この頃緑の髪が地球を救うという漫画の影響で髪をサボテングリーンに染めるが、わずか2ヶ月で地球を救う事もなく色が抜け枯葉色になる。
地元に帰る事もできず1人ギターを弾いて歌う。
半年後東京でできた仲間が次々悪徳商法にハマり、高校時代から3年間付き合っていた女性にふられ、寝たきり状態だった祖母が亡くなり、不幸が重なって悲しみのどん底を経験するが学内での音楽の評価は逆に上がっていき注目を浴びる。半年後プロデューサー重実氏と出会い、ブルース、R&B、ソウルなどを中心に聴くようになりのちの音楽に多大な影響を受ける。
専門学校卒業後はブルーステイストの楽曲を作曲しライブハウスで活動。この頃からファンクブルースにはまる。
21歳、ユニット「FolklloA」で初の自主音源「看板作り」発売。
23歳春、青春18切符を片手に夜行列車に乗り九州を旅してたくさんの人に出会い人の温かさ実感する。
この体験をライブ情報誌「あたふた」に載せる。
23歳秋、渡米をしたいと考えるが勇気が出ず50万以上自転車に費用をかけ日本を旅してまわろうとするが18時間走った末静岡駅で断念。
この頃、父親の薦めで「DAYS JAPAN」を読み出す。初ソロ音源「ダンディの瞳」発売。
24歳、東京を中心に140回ライブを展開、月一でBARプロデュースも始めるがその途中で右手親指を骨折。ピック演奏ができなくなる。
仕方なく指で弾くが、結果的にパーカッシブルで独創的な弾き方になる。
その後自らラジオ番組「花枝聖のお~家」の製作、パーソナリティを勤め大忙しの日々が続く。
25歳、ライブのやりすぎで生活困難となり1週間分の生活費すらない状態が続く。
家の近くの本の仕分け工場で日払い5000円で働き始め、お金の大切さと喜びを実感する。
バイト三昧の日々になる。CD「無理しない」を発売。
■再燃期■
26歳、生活がようやく安定し、音楽を猛烈にやりたくなる。
夏に板橋区議会委員含む数多く人達の協力のもと「板橋三次公園音楽祭」を主催するなど、
数百人の人の前で歌いだす。音楽雑誌にも取り上げられる。CD「たぬき」発売。
27歳、初のファン交流会でテレビ東京「音楽ば~か」に出演していたおっペン氏に声をかけられ、番組内で作曲する仕事をいただく。以後約4ヶ月間に渡り番組に出演し、アーティストCHARA氏に楽曲を気に入られ、ZEPP東京で約2000人を前にライブしCHARA氏と共演も果たす。
そして「ハートとハートをつなげて花を咲かせるよ」をテーマに初プレスCD「花」を発売し、人と人の間にある見えにくい温かさを表現、板橋区区民祭、板橋健康ネット博など板橋を中心に、ショッピングセンターやお祭りなど一般市民が大勢いる場所へ積極的に参加する。音楽性が固まってくる。
28歳、年の初めに環境問題の話しを聞き、その勢いで環境問題をテーマにした7月7日代々木野外ステージでキャンドルナイトライブ、8月9日上野水上音楽堂野外ステージを開催する。
それと平行し地域活動にも積極的に関わり、板橋、稲城、亀有などでテーマソングを提供し、地元ラジオ局などでも取り上げられる。 冬には環境をテーマにした初のミュージカルライブをし出演、演出、監督に初挑戦する。
同時期、話しがうまいと言われた事から司会の仕事も始めるが、9時間しゃべり続ける仕事や酔っ払いの人達に囲まれながら司会をするという仕事をした際、自分の実力のなさを痛感し懲りる。
3月CD「STAND UP」発売
29歳、年の初めに新たな音楽表現に挑戦しようとし、多額の借金を作り生活苦に陥るが、アーティスト仲間とのイベント「凄ぇポジティブ!!!」を行うことにより精神的に持ち直す。5月、6月立て続けにCD「東京音楽」「Rainy Days」発売。
9月2年ぶりに行ったワンマンライブがチケット完売した為、10月初の追加公演ワンマンライブを行う。さらに12月にもワンマンライブを行い音楽活動が活発になる。
30歳、日本を襲った災害や、家族の病気、自分自身も度重なる怪我や病気を患った事により、音楽活動そのものを見つめ直すようになる。6月まるで家の中に遊びに来たような感覚をコンセプトに森のテラスにて月に一回ライブを行う。9月後半に襲った台風により被害を受けた南山(東京都稲城市)に足を運び、折れた大木に座ってライブをする「森ライブ」を構想する。 イベントを作りながらその為の基地のような場所がほしいと願った所、偶然近くに空き店舗を見つける。
31歳、市内に自然と音楽で盛り上がるCAFE「green world cafe」を立ち上げる。
市の応援ソング「良いな稲城」を作詞作曲し提供。(2016年5月現在、市のオフィシャルサイトに掲載中)
32歳自然と音楽の祭典「森フェス」を主催、読売新聞、東京新聞、産経新聞に取り上げられる。
全国商工会が主催する経営者主張大会にて読売新聞特別賞受賞。
地域応援バンド「花枝聖と稲城の森BAND」結成。
市内周辺に住むBass水野雄介、key服部ヒロがメンバーとなる。
大手楽器メーカー「KORG」本社ショールームにてクリスマスコンサートを開催する。
33歳、稲城フェスティバル、稲城I祭りなど市内のイベントに多数出演しながら、市内最大の市民ホール「アイプラザホール」にて、7月キャンドルナイトLIVE、11月音楽祭を開催する。
34歳、市内のYOSAKOI団体へ「わが街」を作詞作曲し提供、自身も歌い手として参加する。古民家再生を目的にレンタルスペース「聖亭」を立ち上げ東京新聞に掲載される
同時期にボランティア活動をするアーティストを支える団体「小さな音楽団」を立ち上げる。市内で2番目に大きいお祭り稲城手づくり市民祭り(以下市民祭り)へ出演だけでなく企画に参加。フラッシュモブチャレンジをし会場内を練り歩く
35歳、市民祭りへ本格的に参加。メインエリア以外に芝生エリアを立ち上げる。YOSAKOIの活動で北海道へ行きいくつかの街をまわる。そのうちの一つ剣淵町を舞台にした映画「じんじん」を自分の街でも上映する事を決める。
12月バースデーLIVEが朝日テレビ「スーパーJチャンネル」に流れる。
36歳、1月映画「じんじん」上映。5月稲城手づくり市民祭りの中に芝生会場、絵本の森、展望台ツアーなどを企画し盛り上げる。10月お店近くの商店街を盛り上げる「弁天通りハロウィン」を企画。取り組みを東京新聞に掲載される。
5月頃家族トラブルで悩む女性に会い、勇気づけようと音楽で次々と新しいチャレンジを行いいつでも新しい道を歩む事は出来るという事を何度も表現するが、彼女がライブに来る事はなく連絡が途切れる。
37歳。1月読売新聞「多摩人」に紹介される。施設LIVEに赴いた際、会いに来ただけでも喜んで元気になる人達を見て衝撃をうける。市内だけで留まらず、多くの方へ会いに行き元気を届けたいと「吹け吹け福の風プロジェクト」を立ち上げる。
38歳。仙台ジャズフェスを始め、静岡や福島など色んな地域のフェスへ積極的に参加していく。
39歳。コロナ禍となり、お店以外での活動休止。
40歳。再び活動再開し始める